天気雨

お茶でもどう?という内容の、絵文字がたくさん散りばめられた軽い調子のメールが送られてきた。
普段ならばこんな誘いには乗らないのだけれど、日にちが日にちだったから私も軽い調子で返信した。
第一、暑くじめじめとした部屋の中にいては頭がおかしくなってしまいそうだったから。
今日の日付が赤で三角に囲まれているカレンダーを横目にとらえ、廊下を通り抜けた。玄関でサンダルを履き、誰もいない部屋のドアに鍵をかけた。
マンションから出ると突然雨が降り出した。かなり激しい降り方だ。いっきに出かけたくなくなってしまった。
これでは傘をさしていても服が濡れてしまいそうだ。ただの雨ではなく天気雨というところも気に食わない。
降るのならば暗い雲のもとであってほしい。雨なのに太陽が顔を覗かせていると調子が狂ってしまう。
それでも約束は約束、と気持ちを切り替えて私は傘を取りに帰った。大きめの傘をさし、急ぎ足で目的地へと向かった。
外では季節にそぐわない冷たい風が吹きすさんでいた。
ノースリーブの肌に触れる奇妙な温度の雨と風が気持ち悪かった。思わず歩く速度をゆるめそうになったけれど身を縮めてどうにか耐えた。
向かい風を押しのけて歩道を突き進んだ。サンダル履きの素足が雨に打たれ、裸足で歩いてもなんら変わりがないような有り様になってしまった。
舗装の粗が目立つコンクリートに水たまりが点在していた。私の行く手を阻んでいるようだった。

待ち合わせはメールの相手と私が住んでいる場所のちょうど中間地点にしよう、ということで近所の小さな喫茶店になった。
喫茶店ならばジャズが流れていてもいいようなものの、マスターの趣味によりクラシックがよく流されていた。常連客からは愛称として「バッハ」と呼ばれている。
ようやく到着したそこで店員に出迎えられた。案内された場所に向かうと、禁煙区画の一番奥にあるボックス席にその人を見つけた。
「よっ!風鈴ちゃん。元気してた?」
こっちこっち、と大きく手を振ってきた。彼氏である蓮の友人。高校以来の知り合いである、久耀くんだ。
卒業式の日から彼とは会っていなかったので五か月ぶりの再会となる。
彼の性格を表したかのような明るい色の茶髪は相変わらずだった。ひとつ、変わったところと言えば――。
「あら、もう前髪は上げていないのね」
久耀くんはたしか、ピンだかヘアクリップだかで前髪の一部を上げているヘアスタイルだったはずだ。
指摘すると、彼は驚いた顔をしてから照れ隠しのように頭をかいた。
「あー、そういえば忘れてた。いつもはだいたい上げているんだけどね」
髪をいじる仕草は照れだけではなく、他のなにかも隠しているようだった。
――久耀くんが午後のティータイムに誘ってきた理由はなんとなく分かっていた。
「どうして突然私を呼んだのか訊ねてもいいかしら」
「そりゃーもちろん、キレイなお姉さんとお茶できる絶好のチャンスだと思ってさ」
鬼の居ぬ間に〜ってやつ、と歯の浮くようなセリフを言ってのけた。つまり、今日ある人物が不在だとこの人は知っているわけだ。
「本当の理由は?」
「いつも本当のこと言ってんだけどなあ。しいて言えば……家でじっとしてんのも、なんかなーって思って」
笑顔で聞き返すと観念して本音を漏らした。最初からそう言えばいいのに彼はいつも余計な建前を挟んでくる。だから様々な女性に勘違いされてしまうのだろう。
久耀くんはちゃらついた見た目どおりの遊び人だ。博打絡みのうわさは聞かないけれど、女性絡みのうわさは耳が痛くなるほどに聞き飽きている。情報源はもちろん、彼の悪友だ。
気を取り直し豪雨で乱れた髪と服装を整え、ひと息ついてから店員にアイスコーヒーを注文した。すると、久耀くんも同じものを頼んだ。
「さっきの質問だけれど、今日はあまり元気じゃないわ」
「突然呼び出して悪かったって。そんな怒んないでよ」
あなたもそうでしょう、という言外に含んだメッセージは彼に届かなかったみたいだ。
品なく笑う彼の表情は久々に見るからか白々しく感じてならなかった。
それは髪を上げていないせいなのかもしれない。すこし長めの前髪が顔に影を落としていた。
「まさか急に雨が降ってくるとは思わなかったし。ゴメンね、服とか汚れちゃったっしょ」
「あなたはまったく降られていないようね」
「オレは風鈴ちゃんに会いたすぎて早めに来ていたから」
「はいはい」
そんなやりとりを交わしていたら頼んでいたものが運ばれてきた。久耀くんは目の前に置かれたアイスコーヒーに視線を落とすだけで手にとろうとしなかった。
私も彼にならい、開けてしまったストローで氷をかき混ぜるだけにしておいた。店員が去ってからすこしの間、微妙な沈黙が続いた。
やはりお互いに本調子ではないようだ。前に彼と話したときは会話が途絶えることなんてなかったはずなのに。
なにを話そうかと迷った挙句、話題が見つかるまで他の音に耳を澄ませてみることにした。
店内のBGMが控えめに流れているうえに客足がまばらなせいか、雨の音が妙にうるさく聞こえた。
窓の外に視線を移すとやけに眩しい日差しに目を焼かれそうになった。すぐに視線を戻した。
「この天気はどうも好きになれないのよね」
「なんで。すげー天気悪いより良くない?」
「ややこしいのよ。晴れるか降るか、どちらかにして欲しいわ」
未だに降り続ける天気雨を見てため息が出た。
激しい雨音の合間にバイオリンの音が介入してきた。よりにもよって消え入りそうに流れるクラシックはG線上のアリアだった。
朝から姿を見ないあの人の顔が急に浮かんだ。
もっと早くに出かけた彼は傘を持っていったのかしら。
「あなたは“彼女”に会いに行かないの」
口から言葉が零れていた。口に出したあとでこの場に不適切な質問だと気づいた。
久耀くんは失言を非難することもせずにゆるく微笑んでから返答した。
「行くよ。蓮のあとに」
私は口をつぐむしかなかった。氷が一つ、溶ける音がした。グラスの表面に浮かび上がった水滴が一筋、流れ落ちた。
「こんなこと風鈴ちゃんに言うべきだかわかんねーけど」
弱々しく前置きをし、彼は続けた。
「蓮ってさ、一途じゃねーよな」
困惑と怒りを抑えきれていないような、普段の彼からは想像もつかない声色でその言葉は発せられた。
どうにか笑顔を保とうとしている歪な表情の顔は見ていられるものではなかった。
「彼は一途よ。とっても。蓮は最初から私のことなんて見ていないもの」
私は彼の意見を打ち消した。目の前の顔が納得できていないものへと変わった。
久耀くんはもしかしたら私を慰めるためにここへ呼んだのかもしれない。
「いいんじゃないかしら。あなたは解放されても」
解放、という言い方は“彼女”に対して失礼かもしれないけれど、彼らを見ていたらその言葉が一番適切だと思えた。
彼は私の言葉に答えず、放置していたグラスを一口あおった。
「うえっ、これ超苦えんだけど!」
大げさに悲鳴をあげて彼はアイスコーヒーをテーブルに叩きつけるようにして置いた。すかさず通りかかった女性の店員を呼びとめ、違う飲み物を注文していた。
ためしに一口飲んでみた。たしかに苦かった。久耀くんはコーラが運ばれてくるまでのあいだひどいしかめ面をしていた。おそらくは、私も。
「こんな苦いコーヒーを飲むために来たんじゃないんだよ」
オレだってもっとうまいやつ淹れるぞ、と悪態を吐きつつ、彼は笑った。
「口直しだな。甘いの食おうぜ。とびっきりあまーいの」
コーラを運んできた店員にピースサインをしてパフェを二つ頼んだ。
「今日はおごるからさ。付き合ってくれるっしょ?」
「ええ、付き合いましょう」
彼につられて思わず私も笑ってしまった。
減量していたけれど今日ばかりは甘いものを食べたっていいわよね。

それから私たちは山盛りのパフェを食べながらお互いの近況報告をした。どうやら久耀くんには最近気になっている子がいるのだとか。
猛烈アプローチも空しく、三つ年下の女子高生はなかなか振り向いてくれないらしい。
高校生と聞いてすこし不安になったけれど、聞く限りではとても良い子そうだ。きっかけは街中での一目ぼれだと言っていた。
三十分ほどその子についての話が繰り広げられた。まだ見ぬ女の子の姿を想像しながら、良い報告を待っているわね。と終わりの見えない話をしめくくることにした。

店を出るころにはすっかり雨が止んでいた。激しく降るついでに気怠い暑さを奪い去っていったようだ。だいぶ過ごしやすい気温になっていた。
「家まで送っていきたいけど、これ以上は後が怖いからエンリョしておいたほうがいいかな」
「賢明な判断ね」
冗談を言い合い、私たちは店の前で別れた。
じゃあね、また連絡するから、気をつけて帰って、と名残惜しそうに何度も手を振る彼を置いて去るのは子犬を見捨てるようで心苦しかった。
それにしてもなかなか上手な隠し方だ。前髪を伸ばす利点はそんなところにあったのかと、今日彼に会って感心してしまった。
でもやっぱり前髪を上げているほうが久耀くんらしい。おそらくは腫れているであろう彼の目元がはやく治りますように、と願う。
来た道を振り返った。人ごみに紛れ、彼の姿はもう見えなくなっていた。
落ち着いた声のトーンとうまく笑えていない顔を思い返した。さっきまで話していた相手が久耀くん本人であったのかどうか私にはわからなかった。
まるで狐につままれたかのような一日だ。
ビルの裏側に姿を隠そうとしている夕日はいつもの柔らかい色を帯びていなかった。血だまりのような赤黒い色が街を覆っていた。

明かりのついていない部屋のドアを開けた。玄関は施錠せずそのままにしておいた。
電気をつけ、バッグを廊下に放置してダイニングテーブルの椅子に座った。
こんな部屋では秒針の音が気になって仕方がない。もう雨は降っていないのに耳障りな音が響いていた。
テレビをつける気にもなれなかった。今日は本当に調子が悪い。視線は行き場を失って、結局カレンダーへと行き着いた。
赤い丸で囲まれている日付は二週間前の今日だ。私が印をつけ、予定を書く欄に記念日と書いておいた。
今日の日付は蓮が囲った。予定はなにも書かれていない。
命日。それは重い言葉だ。カレンダーに書かれていなくても二年前の今日、蓮にとって大切な人が亡くなった日だということは知っていた。
その女の子が久耀くんの大切な友人であるということも。
部外者の私に気を遣っているつもりなのか、去年の今日も蓮は黙って出かけてしまった。
どう扱っていいのか考えあぐねて丸でもバツでもない、三角で印をつけたのかもしれない。
ドアの開く音がした。出迎えるのは癪だからテーブルに伏したままでこちらに向かってくる足音を待った。
「ただいま」
聞き慣れた声が耳朶に触れた。いつもとなにも変わらない調子の声だ。
「寝てんのか」
腕に触れてきた手を払った。顔を少し上げて彼を見た。
「悪い。遅くなった」
私の顔を覗きこんだ彼の表情は予想していた通りのものだった。
「笑わないで」
彼の体を引き寄せて肩口に顔をうずめた。濡れた服が乾ききらなかったのだろう。仄かに雨の香りがした。
どうしてどいつもこいつも無理して笑ったりなんかするのよ。

大嫌いな天気雨は来年の今日もきっと降る。



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天気雨ってあまり冬には降らないっぽいですね。当初は冬の設定でしたが慌てて夏の話に変えましたOrz
去年のクリスマスに載せるはずが年越しました。話を書いているとキャラクターの設定と齟齬が生じます。
なんでこいつら同棲してんの。()どうにかしなければ。
13/12/25
(14/02/04加筆修正)